archive : 見えない経験、組織されない身体 Inbisible Experiences, Unorganized Bodies

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English

2020年10月24日及び25日に開かれたIPAMIA event 10「見えない経験、組織されない身体」のドキュメントです。まず、観客である以下の2人の方から、感想、もしくは、レビュー文と言ったテキストをいただきました。感謝しつつ、掲載します。以下のリンクから飛べますが、テキストは当稿の下の方にあります。

渋革まろんさんによるテキスト 整地、空転、人形劇、3つのパフォーマンスについて     

M.T.さんによるテキスト  感想

 

以下は、動画によるドキュメントです。

date : 24th October 2020
artists : 北山聖子 Seiko Kitayama, たくみちゃん Takumichan, 恒星 Kosei, 清水恵み Megumi Shimizu
venue: 大宮旧図書館
project : さいたま国際芸術祭2020  Saitama Triennale 2020
camera: 喜納洋平 Yohei Kina
edit : Sakiko Yamaoka

date : 25th October 2020
artists :  小野田藍 Ai Onoda, 髙橋莉子 Riko Takahashi, 山岡さ希子 Sakiko Yamaoka
venue: 大宮旧図書館
project : さいたま国際芸術祭2020  Saitama Triennale 2020
camera:   石原新一郎 Shin-Ichiro Ishihara
edit : Sakiko Yamaoka

date : 25th October 2020  
presenter : 瀬藤朋 Tomo Seto
「インドのハフォーマンスアート: 危機の時代の実践」
“Performance art in India; its creativityand politicality on critical moment”
venue: 大宮旧図書館
project : さいたま国際芸術祭2020  Saitama Triennale 2020
camera:   石原新一郎 Shin-Ichiro Ishihara
edit : Sakiko Yamaoka

*

 

 

 

<REVIEW>

整地、空転、人形劇、三つのパフォーマンスについて

渋革まろん

10 月 24〜25 日、旧大宮図書館にて「さいたま国際芸術祭 美術と街巡り事業」のひとつと してパフォーマンスイベント『見えない経験、組織されない身体』が開催された。「街巡り事 業」なる地域振興目的のプログラムには、およそ似つかわしくないように見える本イベント は、まさに常識的な日常のまなざし/フレームだけでは「見えなくなる経験」を提示するもの だった。

私が見たのは 25 日に公開された小野田藍、髙橋莉子、山岡さ希子のパフォーマンスと、瀬藤朋によるインドのパフォーマンスアートに関するレクチャーである。

トップバッターとなる小野田のパフォーマンスから振り返ってみよう。まず、骨折している のか、左腕のギブスを三角巾で支える小野田が登場する。小野田は野球のバッターボックスや コートの線引きに使われるラインカーで床に線を引き、一定の大きさのかこみをつくる。とは いえ、その線は「見えない線」である。ラインカーに石灰が入っていないからだ。それから、 野球グランドの手入れをする「トンボ」という道具を使って、かこみのなかを「整地」してい くのである。

こうして小野田は、1 階から 3 階まで、ときには展示スペースにまで入り込み、旧大宮図書 館内のさまざまな場所を整地していく。ここで面白く感じられるのは、小野田の遊戯的な行為 によって土地の所有権が上書きされる感覚だ。

「旧大宮図書館」は(おそらく)大宮区が管理する公共施設だ。公共空間は市⺠/区⺠共通 の財産である。その上で、事業委託された主催者に貸与され、たとえば賑わいの創出という公 共的な目的に応じて利用される。

こうした構造を私たちは自然に受け入れ、その土地=床面を誰かが何かのために「所有」な いし「占有」している感覚を持たされる。しかし、小野田の「整地」は、ある床面を遊戯的に 「所有」しなおすことで、その土地=床面が誰のものなのかという極めて政治的な問いを喚起 する。

だから、施設 1 階で開催されていた遠藤一郎「ほふく前進御百度参り」の展示空間の一部を 小野田が「所有/占有」したとき、私たちはそこに違法行為のにおいをかぎ取り、勝手にドギ マギしてしまう。しかし、問われているのは、そのドギマギを生じさせる政治権力の布置なの だ(その一方で、野球のグランド整備が、選手の怪我を防ぐために、あるいは仲間の結束を高 めるために、後輩が先輩に奉仕するために行なわれる練習前後の儀式的な行為であるといっ た、多義的な意味合いにも注目してほしい)。

髙橋莉子のパフォーマンスは、いわば自家製ルームランナーである。ただし、ここでの「ル ーム」は旧大宮図書館という建物そのものを指している。足にローラースケートを装着した高橋は、周囲の風景が見渡せる窓の一角に手をつく。そして、窓面を支えに前に向かって歩こう とする。靴底の車輪は回転し、高橋はその場で延々と歩き続けることになる。

ここで高橋は、ルーム=旧大宮図書館を「ランニングマシーン」に転用したランナーにな る。高橋は力むこともなく、無理な速度(?)を出そうとすることもなく、たんたんと歩行を 空転させる。その歩行の空転は、ふだんは当たり前に当たり前すぎて意識されないある事実を 強調する。そう、建物は、押しても動かないのである。

「押している」というのは比喩である。高橋は窓面を支えにしているのであり、「押してい る」わけではない。そもそも建物の内部にいるのだから押しようがない。ではなぜ私は「押し ている」と感じたのか。車輪の回転は、人の体を前に前に進ませるエネルギーを生むからであ る。前に進ませるエネルギーと、そのエネルギーをせきとめる窓面の拮抗が、建物を前に「押 している」感覚を惹起する。

だから、ローラースケートの空転は、旧大宮図書館が確かに〈ここ〉にあることの再演行為 になる。再演とは、いわば旧大宮図書館が空転の瞬間瞬間に現れるという意味である。一種の アウラ、押されても動かない建物の重みが高橋の行為によって感覚されると言い換えることも できる。しかし、それは単に〈ある〉のではない。空転の運動の瞬間瞬間が、〈ある〉をある ことにするのだ。

ここではじつにさりげなく、しかしとても奇妙な知覚の転換がおこなわれている。普段、そ の奇妙さはわたしたちの知覚の常識に抑圧されている。ところが、高橋のおそろしくシンプル な行為は、目には見えない旧大宮図書館の姿、各瞬間になぜか存在している〈それ〉の謎を確 かに知覚させるのだ。

小野田と高橋のパフォーマンスは、基本的にひとりで完結するものだった。それに対して、 山岡さ希子のパフォーマンスは、観客との交流と協働のなかでゆるやかに場をあたためながら 進行していく。

その構成は大きくふたつに分かれる。前半ではスペース内を歩き回りながら、赤いゴムボー ルを(バスケットボールをするように)床や天井にバウンドさせていく。その間、「感染拡大 予防で、ボールをお客様に渡しちゃいけないが、もし転がってきたときは消毒して拾ってくれ てもいいですよ」と、ユーモアを効かせた語りで観客の心を和ませる。

後半は、「脈拍」の「スコア」をもとにしたメトロノーム・パフォーマンス。山岡は参加の 意思を示した協力者に自らの脈拍を測り、観客とともに「ぱん、ぱん、ぱん」と声に出して記 憶するように指示をする。そして、テーブルに置いたメトロノームのテンポ(BPM)を、協力 者の脈拍に調整する。最終的に、さまざまなかたちをした 7 つのメトロノームをテーブルの上 に並べ 7 人の脈拍からなるメトロノームの演奏が展開される。

それはまるで 7 つのメトロノームによる人形劇のようだった。どういうことか。脈拍のよう な生命現象の反復をリズム、メトロノームのような機械の規則的な反復をテンポと言い分けて おこう(※この相違についてはルートヴィヒ・クラーゲス『リズムの本質』を参照のこと)。

今回のパフォーマンスに参加した協力者は、手首に指を当てて検脈していくが、そのリズムは なかなか一定しない。私自身もそうだった。単純に緊張のために心拍数があがってしまうの だ。このように意志では制御できない持続的な流れのリズムに巻き込まれてあること。それが 生命の証である。

他方で、規則的な反復には生命の揺らぎがない。というより、揺らぎの矯正がメトロノーム の機能的価値である。だからメトロノームは生命の時間(リズム)を機械的な等質な時間(テ ンポ)に従わせる。ところがこの「人形劇」では、メトロノームのテンポに脈拍(リズム)の痕 跡が移植されることで、あたかも機械に生命が混じりこんだかのように印象させるのだ。

だがそれはたんに人間の生命(リズム)を機械の規則(テンポ)に置き換えただけではない か。たしかにそうとも言える。しかし、7 つの脈拍がインストールされたメトロノームは、互 いに異なるテンポの打音を奏でながら、雑音にも近い複雑なポリリズムを形成し、単一の時間 (テンポ)の専制から逃れる音響空間を現象させる。こうして、この一連の手順は、制御不能 な自然ー―地球環境、身体の欲望、ウイルスや細菌といった微生物までー―を合理的な計算可 能性において支配してきた近代的な時間を転用して、また異なる複数的な時間を生み出す喩的 操作となるのである。

蛇足であるが、これをモノに人間表象を投影した、多様な他者の共生と読むのは当たらない 感じがする。ガチャガチャしてうるさいからだ。パフォーマンス全体の柔らかい雰囲気とも相 まって、ただあたりまえにこんなもんだよ、と言っている(?)ような気がした。

このあと、瀬藤朋が自身の滞在経験も交えて、90 年代から現在に至るインドのパフォーマン スアートについての刺激的なレクチャーを展開した。その模様は、IPAMIA の WEB サイトで公 開されているアーカイブを参照してほしい。

さて、ここまで述べてきたように、本イベントは常識のフレームでは見えなくなる経験の領 野に、パフォーマンスの遊戯性(現実にフィクションを重ねる)、行為遂行性(行為で行為が属 する環境の意味をつくる)、喩的操作(関係の操作から比喩をつくる)などを介して光を当て るものだった。

ただし、これは私の視野=フレームから解釈された限定的な経験であることに注意したい。 いや、ここでは、それが限定的であると知ることが重要なのだ。私は小野田の行為を「整地」 として解釈したが、実際に愉快なのは、トンボが床を動くときに鳴らされる「ガラガラ」音で あるし、悠久のごとく続く車輪の「シャカシャカ」音であるし、ボールを「バイキン」あつか いするかどうかの皮肉の効いたユーモラスな交流である。それそのものには完結した絶対的な 意味はない。それはそれ自身で観客や環境との関係のなかから新たな意味の地平を明け開くの である。

だから、行為の意味を先取り的にかためてしまうあらゆるフレームを拒否すること、ズラす こと、複数にすること。〈いま・ここ〉の感覚を突端に、世界への想像力を手繰り寄せる、そんな観者のアクションをたえず促し続けることで、本イベントは〈私〉と〈世界〉の自由な交 歓の場を設えるのである。

*

 

 

 

感想  by M.T.

指は指差せない、から始まる紹介文、 見えない経験、組織されない身体、とのタイトルに魅かれ、観に行った。

大宮は京都を終点とする中山道が通っていた、という町らしい。

M.T.

さいたま国際芸術祭というのは今回は大宮が中心らしく、少しぶらぶらしたり、運良く展示も見ることができた。

旧大宮図書館、というところで、主に三階でパフォーマンスが行われたわけだが、すでに使われていない図書館 は、床は剥げつつある、昭和 50 年代の雰囲気を残していて、アーカイブ、あるいは社会主義的?官僚制を感じさ せる書庫跡があり、その傷や痕跡が刻まれうる物理性は今やインターネット、web あるいはクラウドにとってかわ られようとしていることにもパフォーマンスによって思いを馳せることになった。 そんな場所で、見えない経験と、組織されない身体を共有あるいは理解すべく、準備を重ねてきたというパフォー マーたち。

コロナで延期されていた。本来は 3 月頃の開催予定だったという。 僕も前から、このタイトルなどを見ていたから、なんとなく想像し、身構えていたところもあったかもしれない。観客 に過ぎないのにタイトルの魅力に若干緊張さえしていた、と言ってもいいくらいかもしれない。

1 日目。

たくみちゃんさんのパフォーマンス。 地面、床の凹凸を、触感から全身でフロッタージュして痕跡を残しつつ、舞踏していた。 分断のない世界をつくりたい、と言う。 まる、は個か、心か。両手と円を描く身体のリズムは見るものにも振動してくる。 両の手、二つの円、下半身は描けないから、下部ではつながっているのは、人と人の間でつながっているのだろう か。人にはオーラがあると言われるが、両の手で描く円くらいの大きさがそれなのだろうか。境、境界が円、広げる 努力で、太く重なりゆく線、逆説的だけど、明確な境界があってこそ、なのだろうか、人と人は。

2 日目。 やはり、隠れたテーマはやはりコロナ下の身体。

皮肉にも聞こえる、消毒しましょう、とのアナウンス。

ケージの中にいるように、外出の自粛が行われた。それはすでに知らぬうちにわたしたちに身体化されているのだ ろう。 怒りはまさか見えないコロナ自体にぶつけても暖簾に腕押しみたいなもので、行き場がないから、反復し、持続す

るほかない。 ここで、僕にとって応えたのは音、反復する音。先に緊張したと言ってもいいくらい、と書いたが、音にビクビクして いる自分に気づいた。そして、それは同じ場を動かずに滑り行くことや、何かの準備のために地ならしすること、あ るいは脈拍の拍動でもあり、他者の呼吸や脈動を聞くことでもあったらしい。 後者の他者の心拍音がメトロノームにより可聴化され、7 人のそれが集められた。そのバラバラな脈動は、カオス なのかもしれないが、ある人の説によると、組織され得ない 7 つのメトロノームの心拍音は、それぞれ自律的に鳴 るように聞こえても、ある周期で一致するのだとか。数学的にはそうなのかもしれない。 一つの場での反復行動。それは、水平に窓の外に広がる世界に出ていこうと足を動かしたり、手を伸ばそうとした り、さらに壁やガラスを押したりしても、広げることがかなわず、ただ反復を迫られる。垂直方向、青空あるいは星 空が広がる上方に向かおうとしても低い天井にぶつかり跳ね返るだけだったりして、この箱の中ではイマジネーシ ョンを拡げようとしても、自分に返って来るほかない。そんな世界に私たちはいるのか。 仕方なく音という空間に耳目を集中させる。 あるいは、いわば下方へ、床へ、いわば叩きつけるように己をぶつける、または沈める(鎮・静める)しかない、のか もしれない。やり場のなさ。音も重力により沈潜しゆく。

ドュレーション・パフォーマンスというらしい。一定の長さ、時間、パフォーマンスし続ける。自然反復・回帰が発生す るものらしい。
duration とは持続のことだそうだ。反復というのはある一点から動かないこと、動いても元のところに戻ること、と の指摘があった。 また、床もあるから物理的には掘り下げられない。そうした中で自由に活動する存在とは、可能性とは果たしてな んなのだろうか。 あるいは床や地面、地層の痕跡からマグマのように噴き出て来うる何物かであろうか。すると、聖地、サンクチュア リを聖定するかのように線を引き画地し、地をなでるようにならし、なだめる必要があるのかもしれない。 コロナというウイルスは現代文明とどのような関係があるのだろう。土がない、タネさえ植えることもままならない都 市文明に生きること。コンクリートや鉄などの箱の中にくらす私たちとコロナの関係とは?

それでも、社会的な動物たる人間である限り、最小単位の個と個は感応し合うものだと思う。たとえ引きこもって一 人になろうとも、今は壁を越えて容易にアノニマスな何かが孤独者に入り込む。固有名を持てない、というやるせ なさ。
そう簡単に己の体験を経験とすることもできない。おそらく経験化するには他者が必要だから。 そんな中で、皆の呼吸と脈動に意識を向け、 意識が混ざり合わせ、場を作る、というよりもむしろ、出来事を皆で作る、というこころみが目指されていた。それは 長いようであっという間の体験でした。