カナダのパフォーマンス・アーティスト、キュレーターで研究者。ヨーク大学のコミュニケーション・アンド・カルチャー・プログラムで博士号を取得。パートナーであり共同制作者でもあるエド・ジョンソンとともに、これまでに26カ国で300を超えるパフォーマンス作品を創作してきた。1993年から2007年までFADOパフォーマンス・アート・センターのパフォーマンス・アート・キュレーターを務め、1997年から続く7a*11d国際パフォーマンス・アート・フェスティバルの創設共同キュレーターでもある。ポールの主な研究分野は、サイト・レスポンシブ、デュレーション・パフォーマンス、思考する身体から見たプレゼンス概念の理解、パフォーマンス・アートの実践の伝達と保存におけるジェスチャーの役割、感覚、経験、知識、精神を共有する器としての身体の探求を通したトラウマへの取り組みなどである。単行本『Canadian Performance Art Legends』シリーズの編集者であり、マクマスター大学とトロント大学スカボロー校で講師を務める。2022年ジョーン・イヴォンヌ・ローンズ賞(キュラトリアルライティング部門)受賞。
artist : Paul Couillard
title : Sitting with the Mountain (30-days durational performance, 8 hours per day on site)
date : April 6 – May 5, 2007
venue : York University at offthemapgallery, Toronto, Canada
project : MFA Thesis Exhibition
30日間のドゥレーショナルパフォーマンス、1日につき8時間 この作品について、その時書いた言葉: 「山と共に座る」 2007年4月6日~5月5日。 山と私、山だけが残るまで共に座る。リー・ポー
私は毎日8時間、ギャラリーで ”パフォーミング” をし、喪失感や悲嘆の体験に通じる閾値や状況を作り出す。私は、トラウマを克服し、緩和するための可能性を開くイメージを探し求めている。 作品は日々進化し、私の日常的な仕草の証拠が積み重なり、消えていく。私の興味は、トラウマを追体験するのではなく、トラウマを和らげるというアイデアにある。 トラウマを再現することなく、トラウマに対処するにはどうすればいいのか?喪失に伴う苦しみを和らげるにはどうしたらいいのか?愛する人の死とどう折り合いをつけるか?悲しみは何を教えてくれるのか?
パフォーマンス・アートは、20年以上にわたって私の主要なメディアである。私自身の身体を通して、また時間を通してイメージを「生きる」ことは、私がアート制作のプロセスを理解し、創造し、そこから学ぶ方法にとって本質的なものである。私にとって、ある考え(idea) は、物理的かつ時間的な理解、つまり「身体的知識」と結びつかないと、完全に理解することはできない。私のパフォーマンスは個人的、社会的トラウマを扱うことが多く、それは身体の限界を試すような問いかけを通して喚起される。アーティストの身体を危険にさらすパフォーマンス作品には多くの歴史があるが、私の意図は決して自分自身を危険にさらすことではない。私は、心理的あるいは肉体的に困難な状況であっても、私の身体(それは決して超人的なものでも、強迫観念的に訓練されたものでもない)で安全に耐えうる、あるいは耐えうる状況に身を置く。私のプロセスの特徴には、しばしば次のようなものがある。
1.そのパフォーマンスの時に持っている自分の身体で、決められたタスクをこなす方法を見つけること
- 持続時間と持久力を道具として使い、行うことを通して学ぶ(私は常に決められた一連の行動から始めるが、行うという行為を通して、また観客の前で自分自身の疑い、不確かさ、わからないという領域に直面させられるというプロセスを通して、予期せぬ解決策や解決が示された場合、私はしばしばパフォーマンス中にそれを放棄することを選ぶ)。
- 反復的、儀式的、あるいはゆっくりとした動作で、自分自身と自分の周囲に対する同調と自覚の問題に常に取り組むことを要求されるような行為に従事すること
4.場所や状況に対する反応性(ギャラリー空間の性質、つまり未完成の壁や床、暖房がないこと、自然光へのアクセス、建築的特徴などは、私が日々の状況をどのように構築するかを導く素材となる)。
(Googleに登録している18歳以上の方はご視聴いただけます。)
artist : Paul Couillard
title : Noir (26-hour performance)
date : 11 September 2001
venue : Gallery 101, Ottawa, Canada
project : Blast” curated by François Dion
『ノワール』はもともと、フィルム・ノワールというジャンルのイメージと、テクノロジーに対する私の関心に基づいたパフォーマンスとして構想された。パフォーマンスに先立ち、私は「記録装置はコミュニケーションツールである。私たちが物語を語り、情報を発信し、時間と空間の様相を捉えているように見せることを可能にしてくれる。それらは私たちの環境を取り返しのつかないほど根本的に変え、私たちの見方や聞き方を常に(そして永遠に)変えてきた。私はいつもこれらの道具を使う。私の世界は、これらなしではありえなかったから。同時に、私の注意力を大混乱に陥れ、憂鬱で失望させもする、気が散り、不快にになり、抑制され、孤立すら感じてしまう。つまり、私は、私の人生を十分に生きていないという感覚になるのだ。私はこの緊張に心をかき乱されたことから、むしろ、この緊張に取り組もうとしている。NOIRは、このテクノロジーの基本的な矛盾を回避する方法を見つけるために考え出された。そこで、他者(観客)と関わることができる実験スペースとして機能する。おそらく、私たちは一緒に暗闇を照らす方法を見つけることができるだろう。”
そしてオタワに到着し、作品の準備を始めるためにギャラリーに向かおうとしたとき、9.11が起きた。ツインタワーが炎上する映像を網膜に焼き付けたくなかったので、私はテレビから目を背けた(ツインタワーはまだ倒壊していなかった)。私は、この新しい物語をリアルタイムで追わないことにした。その代わりに、私は誰もいないギャラリーのスペースに行った。死のイメージのシリーズを上演するというパフォーマンス・アートの計画が疑わしくなったからだ。私は当初のアウトラインを放棄し(そのパフォーマンスはその後も上演されることはなかった)、新たな場所からスタートした。私の周りで起こっている重苦しい出来事の中で、私はまだパフォーマンス・アートの何を信じることができるだろうかと自問したのだ。これは、その代わりに私が行ったことの記録である。
以下は、2001年9月28日発行の『Centretown News』に掲載された、Kristen Vernonによる「Performance art ‘Blasts’ into Centretown」という記事の抜粋である:
ポール・クイヤードは、「(パフォーマンス・アートの)目的は、人々とのインタラクションを伴う状況を作り出すことです。エンターテインメントではなく、人々に考えさせるための方法なのです。」と言う。クイヤールはギャラリーの床に横たわり、死体として知られるヨガの姿勢をとった。足は曲げられ、手のひらは上を向き、指は地面に触れている。彼は裸で、口からは糖蜜が流れ出ていた。訪問者はテープに録音されたメッセージを聞き、別のテープレコーダーに個人的な質問を録音した。訪問者はその後、クイヤールの目を覗き込んだ。彼は誰の質問も知ろうとはせず、しかし、人々に対し、ある示唆深いアクションを行なうように示した。パフォーマンスの後、クイヤールは、彼が提案したアクションが自分の質問とどう関連しているのか、人々が話しているのに気づいた。「人々が違う方法で物事を考えたことで、この作品は成功したのです」とクイヤールは言う。パフォーマンスの準備のために、クイヤールは24時間、寝食を忘れてギャラリーにこもり、「自我意識を超えた場所に入る」方法として、演技中の姿勢を練習したという。クイヤールによれば、彼は11個の瓶に水を入れ、それを飲み、そして排尿したという。クイヤールは、彼の芸術は人間を結びつけるものであり、思いやりのような他の種類のつながりを作りたいと言う。「私たちは資本主義的な文化の中で生きている。これでは長続きしない。私は人間同士を結びつける他の方法を探しているのです」と彼は言う。
artist :Paul Couillard
title : Weight of the Dead (2-day outdoor performance )
date : On Saturday, March 5, 2005
venue : Bonington Gallery, Nottingham UK
project : “Sensitive Skin” curated by Stella Couloutbanis
2日間の屋外ではパフォーマンス
パフォーマンスの事前説明:
2005年3月5日(土)、私はノッティンガム城の敷地内に置かれた氷の塊に言葉を刻む。
翌日、私はその氷の塊をトレント川まで運び、キャッスルロードを通り、ノッティンガム運河に沿うルートを辿る。 私はその氷の塊を川に流し、北海へ、そしてラトビア(私のパートナーの亡き父の先祖の故郷)へと、涙に溶けながら流れていくことを想像している。
これは、このアクションをしている間の私が覚えていることの一部である:
そのとき義父のサムは意識がなかったが、私は彼に伝えるべきことがあると思った。私を家族として受け入れてくれたことに感謝し、このことが私にとって、そしてそれ以上に彼の息子にとってどれほど大きな意味を持つかを伝えた。そして、サムがどんなに良い男だったか、みんなが言っていたことを伝えた。私は彼に、彼は良い父親であり、良い夫であり、人々の愛されていること、良い人生を送り、良い人生を歩んできたこと、家族がどれほど彼を誇りに思っているかを話した。彼が “私たちみんなをこんなに心配させている “と申し訳なく思っていることは分かっていたけれど、実際には、彼は私たちに別れを告げる時間を与えてくれていることも伝えた。 これ以上持ちこたえることができなくても大丈夫、みんな大丈夫だ、みんなお互いの面倒を見ルシ、美しい息子と娘もいるのだから、大丈夫だと伝えた。とにかく、私は彼を愛しているし、彼の息子も娘も妻も彼を愛していると伝えた。病院では、自分が遠く離れた見知らぬ街にいるような感覚を彼に与えていることを知っていた。私は彼に本当のことを話した。すべての人が聞く機会があるべきだと思うことを話した。 しばらく彼の手を握り、額を少し撫でた。終わりが来たとき、それはとても静かだった。彼は目を覚まさなかったし、動揺している様子もなかった。 呼吸が変わり始め、呼吸の間隔が遠くなった。そして、 彼が完全に止まったと思った矢先だった、彼はまた少し息を吸い込み、それ以上は吸わなかった。そして、エネルギーが彼の体から吐き出されるように、体が変化し始めるのが見えた。