archive : 旅と出会い  リー・ウェンによるテキストText by Lee Wen in 2000

archive : 旅と出会い リー・ウェンによるテキストText by Lee Wen in 2000

photo :   Koh Nguang How (Singapore Art Archive Project)
6 th March 2000,  at  Fukuoka Asia Art Museum

Japanese Only

. 以下のテキストは、2000年、シンガポールのアーティストLee Wenが書いたものです。福岡アジア美術館で2000年3月に開かれた「アジア楽市楽座2000」において、当時、レジデンス中であったアーティストでアーキヴィストのKoh Nguang Howがコーディネートしたシンポジウムのために、Lee Wenは書きました。このテキストは、パフォーマンスアートネットワークのメーリングリストにシェアされていて、山岡がそれを見つけて興味を持ち、自身の研究のために翻訳しておいていました。
  20年後の今それを読み返すと、この20年間の「アジア」と括られる地域の「国家、制度的な国際イベント」そして「アーティスト・イニシアティヴ」がどのようであったのか、そして、それを踏まえて、これからどうなっていくのかと、私たちが今、考えておきたいことが様々な視点から書かれていて、興味深いと思いました。
  山岡の下手な翻訳であるため、わかりにくいところや、実際わからないままになっている箇所があり、読みにくい箇所はあちこちにあります。それで原文を探したのですが見つからず。どなたかお持ちでしたら、どうぞ、ご連絡ください。

 以下のテキストはPDFでダウンロードできます。   旅と出会いグローバリゼーションの中での文化包括と交換     


『旅と出会い グローバリゼーションの中での文化包括と交換』

2000年3月6日の福岡アジア美術館におけるアジアアートフェスティバルのシンポジウムのプレゼンテーションの準備のためのテキスト

Lee Wen 李文

翻訳/山岡さ希子  

昨今、国際的なアートの出会いが増えている。私はここで、文化的包括と交換という点から、私の経験したいろんなタイプの国際アートイベントのいくつかを比較し、コメントを述べたいと思う。

私は、国あるいは国際関係の制度的に企画したイベントと、アーティスト・イニシアティヴのイベントに、いくつかの大きな違いがあることに気づいた。まず私は国家の企画した国際イベントの中の文化的包括とその交換のいくつかの側面を検討したのち、アーティストの主導によって企画された国際イベントとそれを比較したいと思う。

1*国家による制度的に企画されたイベント

私が参加した国家により企画されたイベントとして私が取り上げたいものは、福岡美術館での第4回アジアアートショーと、その巡回としての世田谷美術館でのもの(1995年)、それから光州ビエンナーレ(1995年)、ブリスベン(オーストラリア)のクイーンズランドアートギャラリーでの第3回アジアパシフィックトリエンナーレ(APT 1999~2000年)である。これまで、別々のシンポジウムやコンフェランスにおいて、様々な時代の、明らかに区別できる地域別のアートショーについて多くの批評がなされてきた。アジアアートショーは現在、新しく出来た福岡アジア美術館(FAAM)によって提供されている福岡アジアトリエンナーレ(FFAT)によって継承されているが、そこでは展覧会だけでなく、一種の矛盾(誤解)を解き放つことをも期待されている。私は、そのような動きに協力するが、条件なしというわけにはいかない。私は、参加アーティストとして、関係のある批評のいくつかに注目して語りたい。FAATにおけるコメントのいくつかは、ブリスベンのAPTにもあてはまるかもしれない。にしろ、私はここで違いを明らかにしたい。

私は、第4回アジアアートショーでの運の悪い(?)結果となった私の選出について考察する。私の選出は、私がアーティストヴィレッジとともに発展してきたからだ。そうでなければ、私がそのアジアアートショーのことを知ることはなかった。この時、福岡のキュレーターたちが、アーティストを選ぶために助力を求めたシンガポールの公的機関は、彼らに、アーティストヴィレッジのことは言及しなかった。その後、アーティストヴィレッジのメンバーが、ある展覧会のオープニングで、偶然、福岡美術館のキュレーターに出会い、アーティストヴィレッジの存在を知らせたという、たった一度のチャンスがきっかけだった。シンガポールは、大変小さい現代美術のアートシーンであるにもかかわらず、この経験は、公的な国の機関による包括と排除について疑問を起こし、気づかされることとなった。一方、APTは企画の進行に伴い、Lee Weng Choyというシンガポール人の独立した批評家に相談しながら行っていた。そのことを、私は、ポジティブな方向性と思っている。

 最もよく聞かれるコメントの一つは、このだんだんとグローバル化する状況にある、アジアおよび太平洋地域のショーをもたらす反権力的諸相についてのことだ。今日のグローバルな状況にある現代芸術の動きの中の、国際的な見通しの必要性と重要性を無視するのは、愚かなことだろう。しかし、私たちは国際的だと宣言している巨大イベントが、ヨーロッパやアメリカの思考回路や文脈からはずれているアーティストの活動を、適切に取り扱うのに失敗しているのをみる時、グローバリゼイションの指導権を握っているものについても、問わなければならないかもしれない。グローバルな社会は急速に成長している現象であるが、それでいて、相互の著しい相違を取り除いているわけではない。それゆえ、FAATとAPTのいくらかは、それらの相違について提出している。もし、アジアアートショーと現在のFAATがなかったならば、アジア出身の多くのアーティストは、彼らの国の中だけでの活動になっていたかもしれない。私は、この後で、アーティストがイニシアティヴをとることについて入念に書くつもりだが、ここでは私は(以前は西洋と言ったが)ヨーロッパやアメリカ、そして日本、韓国のように豊かな国のアーティストたちが、その比較的良好な経済的背景のおかげで、いかに、彼らの国から出て旅をし、仕事のできる可能性と方法を持っているのだということを述べておきたい。

 さらに付け加えて述べておきたいことは、アジアという概念は疑問を挟むべき、帝国主義的ヨーロッパ人が考えついた、引き伸ばされた巨大な地理的概念だということだ。そのような地域の展覧会は、その全体性を適切に表すことが可能なのだろうか。あいまいな競技方法でもって、アジアのアーティストとヨーロッパのアーティストとを同じ土俵においてしまった、1995年の光州ビエンナーレの件とともに、FAATとAPTに関する疑問についても触れておく必要があるだろう。残念なことに、光州ビエンナーレ’95が表明した、見たところでは包括的で理解できる国際的コンセプトは、まるで秩序のないオーガナイズとマネージメントによって、台無しにされてしまった。それゆえアーティストたちは、まるで動物のように扱われ、巨大グローバルな文化的動物園の中に放り込まれてしまったのだ。これは1997年のキューバ、ハバナでの第6回ハバナビエンナーレでも起きたことだ。そこは自ら、第3世界、そして他のグローバルな異界とされていた国々、特にラテンアメリカの国々を、ハイライトとしてアーティストたちのための立役者として位置付けている。

最近のAPTでは、“境界を超えて”という紹介が、アーティスト自身の母国境界を超えて活動しているアーティストたちを包括する可能性を創った。なおも、このようなアーティストたちは、アジア太平洋地域からどんどん生まれている。もっと広範囲の包括が求められており、まだ完全に人々を満足させるものではない。そのAPTのmeetingの間、聴衆たちが何度もこの問題に関わる不幸について発言し、それは、それぞれの異文化の社会グループが楽園の門をくぐろうとするために起こされた、エンドレスの陳情活動のようにさえ感じられた。良いオーガナイズのイベントは、いつも、経済的および運営上のキャパシティに限界がある。楽観的で適切な表現へのいかなる理想や抱負があろうとも。しかし、試みたことは生かされるに違いない。アーティストが彼らの母国や活動している国別に選出され、分類されるべきかどうかにも多くの人が疑問視する。私は、こういうことはすべての人を満足させることなど難しすぎるので、あまり気にしないことにした。わたしは、国別の分類には、アンビバレンツな感情をいだいている。私たちの源となっている場所の、そのアイデンティティがとても広く、それゆえ、分けることなどできないと思っている。誰がどんな文化に関係した、どこの出身の人なのか知ろうとしないのは、相当な理想主義であるらしい。しかし、わたしは何度も自分の国を離れて旅をしながら、APTの“境界を超えて“というセクションにますます共感している。それは、それとはりあっているFAATより優勢なくらいかも知れぬ。

たぶん、もっと深刻な問題は、幾人かのアーティストに明白な特権を与えて、目に見えるヒエラルキーを作ってしまっていることであろう。アジアは歴史や文化の点において、大きな差異あり、FAAMのような専門的美術館が調査研究すべき、様々なユニークな文脈があるのだ。さらに、それはより小さな島々にも、視界を高めているAPTにもあてはまるはずである。そうでなければ、一般のグローバル社会に忘れられてしまうだろう。

そして、APTでもやはり、誰かがより明白な目に見えざるヒエラルキーをみつける。そこでは日本人のアーティストたちが、第2、第3のAPTでより高い経歴を得、中国人のアーティストたちは中心のステージを得た。人によってはこれらのイベントが地域政治的で、帝国主義的傾向になっていることを解説されることを、ひどく恐れているに違いない。

第一回FAAT(FAAMでの)の展覧会のカタログで、キュレーターの黒田雷児は、国家を超えた”Channels of hope”というコミュニケーションを広げようという上品なテーマと、あっぱれな動機を概要とする楽観的なイントロダクションを書いている。それはグローバル社会にささげるための、島国根性とも言える、民族的地域的根本主義というものだろう。以前の福岡アジアアートショーは、日本を含むアジア人への興味へと向かう先鞭をつけたと言えるかもしれない。残念ながらその興味は、未熟者のうわべの気まぐれの域を大して出るようなものではなかった。アジアのアートはなおも日本では異界的な現象として捉えられている。日本や他のどんな国々の中でも、外国のアートとはそんなふうに捉えられるものだと言う人があるかもしれない。しかし、それはヨーロッパやアメリカ中心的に常に存在するものの見方に対する、強い偏見とは、これとは区別されるべきだ。アーティストの参加するアジアの大きなグループ展は、個人的な見方によるものに比べると、めったに批評や解析的評価がなされることがないと言っても良い。批評的解析なしでは、それは音楽を聴いて、歌の中の詞を無視しているようなものだ。アーティストは、誰がそれを見て、どのように思ったか、知りたいものではないか?

2*アーティストがイニシアティヴをとるもの

1994 年から、霜田誠二は、日本においてNIPAFという毎年行うフェスティバルを始めた。フェスティバルは、霜田の出身地である長野で一回目は始められ、年を追うごとに東京、名古屋、広島などで行われるように、成長した。1998年、アーティストでラムシェウィット(エイズ問題の活動家としてのアクション)とChumpon Apiskは、タイのバンコクでAsiatopiaを始めた。アーティストのアラフマヤーニも、ジャカルタで今年から国際パフォーマンスアートフェステイバルを始めた。ドイツのBoris Nieslonyは、Art Service Association(ASA)という、国際パフォーマンスのセミナーやミーティンング、そしてアーティストでリンクして交換するための活動もしている。アーティストのRichard Martel のLe Lieuは、カナダのケベックでオルタナティヴのアートオーガナイズを行っている。ASAとLe Lieuは、彼らのネットワークを通して、近年、だんだんとアジアのアーティストを探し出している。これらのすべては、互いのコンタクトを持ち、国際パフォーマンスアートのネットワークに成長している。

いくつかのイベントは、ポーランドのKazmierczekによるCastle of Imagination、韓国の野投による1995年のイベントのように、適当なアーティストへの報酬や渡航費を支払う財源に乏しいものもある。それだから、彼らのやり方は、しばしば、実際参加するアーティストより、ずっとたくさんの人数のリストをつくる。そのような大雑把な人選では、凸凹なものになるし、近場のアーティストか、または基金にあてこんでなんとかなる経済状態の国のアーティストたちだけが、参加するということになる。野投は80名余りのアーティストを招待して、その半分以上のアーティストが参加した。そしてその配分は圧倒的に豊かなヨーロッパの国々からのアーティストに偏っていた。1ヶ月もの間、こんなに多くのアーティストを、野投は食事と宿泊の面倒を見た。こんな財力があるなら、もっと少人数でよく選ばれたメンバーで、もっと少ない期間にした方が有効活用できるのではないかと思ってしまう。私が、参加したもので、最良と思われるものは、10~15人を超えることのないアーティストを、4日から10日滞在させるものだった。そのくらいの人数なら現実的に互いに人物や文化の交流がゆっくりできる。あまりに大きなイベントでは、あまりに多くのことがありすぎて、混乱するばかりである。

アーティストがオーガナイズしているこれらのイベントは、彼らも参加者の中におり、そこでは仲間意識がはびこる傾向がある。それによって、ネットワークは関係性が強調され、それゆえ、アーティストは互いのイベントに招待しあうこととなる。そして、それはオーガナイザーであるとともにアーティストである者としての価値基準が重視される。アーティストのイニシアティブのものは、ますます、曖昧な理由の選択によるものになり、キュレーター的な方向性は少ない。しかし、これは、経験作業の一部として必要なのであり、もっと自然に、予想できないような新しい活動が、つまり堅苦しいキュレーター的方法に対抗するために厳格に主観的な強さによる特色のあるものをベースとして、現れてくるものの機会を失わないために必要な過程であると考えられている。これらのイニシアティヴのあるところでは、非形式的シンポジウムやコミュニケーションがあるにも関わらず、それらは、しばしば十分な交流や表現にはなりえない。それは基金の限界ということもあるが、言語の多様性が問題である。カタログやマガジンが、これらの批評的評価の不足を埋め合わせるかのように自費出版するが、たいていの場合、主流のメディアからは無視されたままである。しかも、それらは参加者によって書かれているので、その信用性や客観性を主張しても、受入れがたいものがある。

財源の乏しいアーティスト・イニシアティヴでは、アーティストを運ぶという計画すら限界がある。交通費以外でも、宿泊、食事、スペースの確保、材料費、設備費などは、企画の本質をあらわす決定的な要素である。NIPAFのようなパフォーマンスアートフェスティバルは舞台スペースが限られており、その舞台スペースは、実験演劇的だと散々批判されたような場所であり、アーティストはそこでやらざるをえないのだが、アーティストはこれらの制限による心の負担を、その想像力技術で持って、なんとか克服している。

アーティストがイニシアティヴをとるもので、私が経験したものの中、オーストラリア、メルボルンの1998年 “____-橋”は、最も成功しているイベントだ。このプロジェクトはもともと1981年にRyszard Waskoよって概念化されたオルタナティヴのアーティスト・イニシアティヴである、ポーランドのLodzで設立された “International Artist’ Museum”が生まれた時に企画されたものだった。近年になって、彼らは、外国の支部と提携して、イスラエルやオーストラリアなどの外国でイベントをするようになった。メルボルンの支部は、リチャード・トーマスと熱心なアーティストのチームおよびボランティアらによって運営されている。アーティストの報酬以外は、彼らは50人の外国からの招待作家の計画に関わるいかなるリクエストも、ほとんど無制限に行った。50人を超えるオーストラリアのアーティストたちとともに、パフォーマンスやインスタレーションは、街の中の、様々な場所だけでなく、郊外や田舎の方の様々なところでなされた。アーティストとボランティアの間には心のこもった雰囲気があり、毎晩、無欲でカジュアルな対話がなされた。しかし、そんな大きな事業、自発的なボランティアや適切なスポンサーによる軍団が手伝ってくれるアーティスト・イニシアティヴが、同様の成功を繰り返すことは難しい。そのようなアーティスト・イニシアティヴな国際的なイベントが、一つの国で起こり、他の国々の中止のもと、うまく行われたということは、なかなか立派なことなのだが、あるディスカッションの最終の夜、ニューヨーク支部との揉め事が、明らかになってしまった。2000年に、ニューヨークにイベントを移そうとしていたのだ。しかし、ポーランドのLodzの”Museum”は、彼らのホームタウンで、(例の曖昧で信憑性の乏しい)ミレニアムの日を祝うイベントを行いたかったのだ。これは、経済的成長の低い、かつての東ヨーロッパの国々より豊かで強い国々の帝国主義的余裕への拒否感を背景に持つ、アーティストたちの政治的、経済的状況の現実的なギャップがもたらす、出来事であった。Lodzのアーティストたちは、アーティスト・イニシアティヴをとる国際イベントのコンセプトの所有権を強く要求したが、それによって彼らの国際理想主義の下に隠されていたナショナリズムが、顕現した。

国際化か、または、ネオ・ナショナリズムか?

私は、前述のことに関係して、シンガポール美術館(SAM)で行なわれたノキア・シンガポールアート1999の側面について少し述べたい。この展覧会は、国際的という規模ではないが、東南アジア地域規模の展覧会を作ることで、シンガポールが東南アジアの文化的中心であろうとする政府の政策であることをじっくり考えてみる必要がある。

地図は、権力によって作られたものであり、地域主義は帝国主義によって始まる。神話的なポスト・コロニーの背後で、示威活動や交流を通して、国家のアイデンティティを求めることは、豊かな国々の邪魔臭い見物の面前で、悩める門外漢あるいはマイナーなプレーヤーであることを苦しんで見せるようなものだ。ノキアシンガポールアート1999は、1965年に独立したシンガポールの毎年開かれていた国民の日のお祝いの子供として、展開された。SAMのキュレーターのAhmad Mashadiは、東京での昨年開かれた会議での最近のスピーチで恥じることなく SAMは、意図的にその神話的状態の国を改造するという野望でもっていること、つまり、文化面においてさえ、例外なく支配しようとする様々な領域での権力が複雑な状態であることを、露呈した。Mashadiはアーティストが成長するための戦略を持つことをすすめるくらい積極的な気性の持ち主ですらあるのに、シンガポールの例の有名な厳しい検閲の件を迂回するために、観客がそれを嫌悪するからだという論文を盛り込むことで、問題をすり替えてしまっている。表現にまつわる制限が元となった、あの衝突事件について、このような厚かましい言い訳は、いくらなんでも、どこの美術館でもなされてはいまい。

これらの問題が本当に存在するかどうか、問いかけなければならないいが、現実はたぶん、実に巧妙で洗練されたとすらいえるやり方で、つまり、それはかなりわかりにくいようにされてはいるが、国家のサポートを受けている全てのトリエンナーレやビエンナーレや、そしてアーティスト・イニシアティヴの国際イベントの中でさえも、ネオ・ナショナリズムは見事に国際化という理想に変装して、存在しているのである。

3*結論:Trans-nationalとPost-nationalの形成

国家間の境界が、互いにクロスしている過程や関係を表現するためにglobalizationやInternationalという用語を使いすぎたために、今度は、Trans-nationalという言葉を使おうとしている。実際、多くの“連結”は、国家(nation/state)的なことを巻き込んだ“インターナショナル”ではなく、協力とか個人の活動によってなされているのだ。個人の活動、グループ、ムーヴメント、企業のビジネス、そして多様な組織にとっての、トランスナショナルの領域では、国家主義を継続する意義を無視しているようだ。これは国家(nation/state)の傾向を必然的に先駆するもののように見えるが、しかし、そこはむしろ、ナショナリズムを説明するうちに、その哲学性が増してきたということに対抗する状態に変化したということだけで、特別にオルタナティヴなことに、関心が増えたわけではない。

人類学者のArjun Appaduraiは、ポスト・トランスショナルの形成の増加を、以下のように定義づけている。ポスト・ナショナルが暗に含んでいることは、国家や独占された国家の資本主義の方法やイメージやアイデアや慢性化したその腐敗すらも、ポスト・ナショナルの形成と国家的でないムーヴメントは、現国家の論理によってアンチ・ナショナルに余儀なくされ、本当の国家権力に吸収され、対抗ナショナリズムの前後の中で難航するようにさせられるのだ。この悪循環から逃れるために、Appaduraiは、忠誠心のテリトリーを持たない、ポストナショナルな新しい言葉を探すことを勧めている。

確かに、私たちの活動の状態の自意識を改め、高めようとする率直さでもって、超国家的ミーティングをオーガナイズすることで初めて、独立したアート・イニシアティヴは、国家制度と同じく、その新しい言語を作り出すことを探求し、貢献するに値する重要な位置となるのである。ネオ・ナショナリズム、国家の指導権とか、イデオロジックな見せかけなどによって、泥まみれになってはならない。グローバリゼーションは避けられないのなら、国家の公的期間がポストナショナルなプロジェクトをもサポートしたり、国家的枠組みやパラダイムを超えた境界的視点を育てたりすることは、むしろ、利益になることだと考えるべきだろう。

国家によるアートのサポートとスポンサーシップは、様々な歴史抜きに、語れない。私はここで考えるために、イギリスの場合について書きたい。人類学者Raymond Williamsは、文化的ポリシーをディスカッションする際、戦後の歴史上のこととして、British Arts Council、Keynesian団体のことを引用しているウィリアズムは、ケネスでの文化制度を整えるために、次のような別々の定義をそのアイデンティティとした。

 アート・カウンシルの組織化

  • パトロネージ(後援)の思想
  • 長い間、自らサポートすべきパイオニア的工場をサポートすることに例えられるような、ポンプで呼水を入れるようなこと。
  • マーケットに介入すること。
  • 大衆文化を拡大し、変化させるよう奨励する。

4つすべての方針に基づいた公的なポリシィの実際の実行は、バランスをとるのは難しかっただろう。たとえ、お役所仕事的な手順であろうと。

 一つ一つの批評的評価を辿りつつ、ウィリアムズは、芸術への国家的ポリシーに優先的動機を与えられるに、最も有効なものとして、4つ目の定義を上げている。

公的機関の役割は、教えたり、検閲したりすることではない。勇気つけたり、自信を持たせたり、機会を与えたりすることにある。アーティストは、その生きている世界、および時代の“精神”次第なのである。この成功しても虚しいばかりのこの時代のこの世の中に生まれてくる生まれつきの天才がごく少ないなど、私たちにとってのアートの価値を回復させようとしていることと比べれば、考えるほどのこともない。伝統芸術と現代芸術が、見事に出会うことのできるユニバーサルとも言える機会に恵まれているところでは、新しい作品は、予想だにしない方向や意外な姿をして、豊富に湧き出てくるであろう。ウィリアムズが述べた4番目の定義の性質、つまり大衆文化を真摯に拡大し、変化させようと奨励するということは、芸術の性質とその目的への全ての問いをも、再定義することなのだと、そしてその鍵となる要素は“開放”なのだと。確かに、黒田が第1回FAATのカタログのイントロダクションでの述べたように、ほとんどのトランス・ナショナルなアート・ミーティング、それが国のものであろうと、アーティストと協力して作ったものであろうと、アーティストのオーガナイズのものであろうと、その基礎に理想とすべきものは、大衆文化を再定義するための、この“開放”なのだ。

国のサポートや基金は、しばしば、それやこれやの方法で、国際プロジェクトの大きいのやら小さいのやら、それから国の企画のもの、協力団体のも、そしてアーティスト・イニシアティブのものに要求される。アーティストはこの方向性に優先的な興味を持つ。

ポストモダンのグローバル化した世界、特にパフォーマンスアーティストにとって、社会的文化的構造の中の、流動する「穴」のようなものに対する答えは、自分自身の新しい感覚を見つけるための耐えざる経験を積むために、必要なのだ。パフォーマンスアートは展覧会のために、アーティストは行かなければ成立しない。ポストモダンな経験とは、人間の出来事をよく見つめることで、そこにそういう多義性があることを知る。論述内容は、グローバル社会におけるパフォーマンスおよびaction vis-à-visをベースにしているが、それぞれ自身の新しい感覚は、価値を決断することであり、人間の潜在的道徳のサイズを示すことなである。

世界はポスト冷戦の矛盾から多中心的な世界に変わり、私たちは一つの国とその隣国の文化を単に比較するということではやっていけなくなった。国家企画によるものも、アーティスト・イニシアティヴのものも、トランス・ナショナルなイベントは、Appaduraiの用語で言えば、文化的トランス・ローカリティをつくることによって、本来の役割をになうことができる。トランス・ローカリティは、それ自身によって作り出される新しいコンテキストを持ち、グローバル社会の国境を超える。しかしながら、それはかつてない、意味深くも、期待できる世界に変わりつってゆくための、トランス・ナショナルなアート・イベントへの自意識の高い関係性と批評性をも、求めるものだろう。

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Program for the symposium, the image provided by Koh Nguang How (Singapore Art Archive Project)