DPPT : writing Performance by 平岡希望 山河に遊ぶ ― 玉川上水46億年を歩く× DPPT 「取水口付近でパフォーマンスをする」および北山聖子《太陽に輪ゴムを打つ》について

DPPT : writing Performance by 平岡希望 山河に遊ぶ ― 玉川上水46億年を歩く× DPPT 「取水口付近でパフォーマンスをする」および北山聖子《太陽に輪ゴムを打つ》について

DPPTの企画には、ワークショップ、リサーチ、パフォーマンスの他に、パフォーマンスについてのテキストを残すというものもあります。この作業については、主に平岡希望さんに担います。DPPT設立のページにプロフィールがあります。

written by 平岡希望

第一部 玉川上水46億年を歩く× DPPT 『取水口付近でパフォーマンスをする』

「DPPT (Durational Performance Project Tokyo) 」では、デュレーショナルパフォーマンス (Durational Performance, 以下DPと表記) という、長時間にわたって同じ動作を反復したり、あるいはひとつの行為を引き延ばし続けたりするが故に、身体的・精神的負荷のかかる(だからこそ、Endurance Performance とも呼ばれる)パフォーマンスについて、調査・実践を継続的に行っているけれど、今回の企画は「玉川上水46億年を歩く」とのコラボで、JR羽村駅で落ち合った私たちは、代表のリー智子さんに先導されつつ、まずは、五ノ神まいまいず井戸へ向かった。2024年4月21日10時のことだった。

駅から数分で着いたまいまいず井戸を見おろせば、地下水脈の深さと、地盤の脆さがあいまって、地表からは一直線に掘り進められなかったらしい。そこは直径16m、深さ4m超の “すり鉢” になっており、内壁には、名前の通り “かたつむり” の殻めいた螺旋状の通路が伸びている。底には三角屋根のあずまやがあって、その下の井戸はまっすぐ6m弱伸びているらしいから、巨大な漏斗と言ってもいいかもしれない。ぐるぐると螺旋を下りていく(そして行き着く先には、水を満々と湛えた井戸がある)…ということ自体、DPの時間感覚と近しいかもしれなくて、まいまいず井戸から歩いて20分弱の玉川上水取水口周辺にて、到着した11時過ぎから14時前までの3時間弱、DPが行われた。

パフォーマンスを行ったのは、

シミズさん
フクシマさん
フジモトさん
石田高大さん(以下、漢字表記はDPPTメンバー)
北山聖子さん
山岡さ希子さん

の6名。残る8名の、

セキさん
トリモトさん
ナガテさん
フナノカワさん
ムラヤマさん
リーさん
山﨑千尋さん
筆者(平岡)

は観客だったが、パフォーマンス自体、一旦解散した後にそれぞれ任意のタイミングで展開されたから、取水口付近を見まわしたり、歩き回ったりしないと見ることはできない。

5mほど高台になった、玉川兄弟の像と休憩所のあるあたりから多摩川方向を見はるかすと、おおざっぱに言えば左手には玉川上水が伸び、右手にはなだらかな山がずっと続いている。正面には、その大らかな山並みを見た後だと、鋭さすら感じさせる羽村堰下橋が横一文字に走っていて、シミズさんは、リーさんとフジモトさんと休憩所の近くでしばらく話した後、橋を渡って対岸へ向かった。多摩川は意外に流れが速くて、特に橋向こうからは深そうだが、目線を下げて近くの方を見ていけば、ぼうぼうと、背丈ほどの植物が生い茂っている対岸までは川幅数十メートルほどながら、おそらくは、くるぶしとか脛くらいの水深で、砂利がちの河原を歩いていた石田さんの、川と向かい合うように座り込んだ背中が見える。

さらに手前には、河原から川の中ほどへ、フックのように右(すなわち取水堰方面)へと折れ曲がりながらコンクリートの岸辺が伸びているが、ボルダリングの壁みたいに石がいくつも顔を出しているから、降り立ってみると妙に歩きにくい(振り返ると、先ほどまで私がいた像から少し離れたあたりにナガテさんが立っていて、どうやらスケッチをしているらしい)。岸の突端は斜面になっていて川へ刺さるようだ、山岡さんはそこに立って準備中らしい、足元には拳ほどの石が散らばっていて(たしか10個だった)、赤いバッグの横にはキュウリが3本並んでいる。その傍で川に素足を浸していたセキさんが、「冷たくて気持ちいいよ」と言ってくれて、後でおそるおそる足を入れてみると思わず全身に力が入るほどだったが、その分、コンクリートに足をつけた瞬間の、ざらざらと粉っぽいぬくもりが気持ちいい。

山岡さんと、セキさんの向こうにはフクシマさんもいて、岸から川へちょっと入って、両足で冷たさを楽しんでいるようだったけれど、しばらくすると岸に上がって、山岡さんと石田さんの間、背の低い(それこそ脛ほどの)雑草がぱらぱらと生えるその一帯で、黄色い、ちいさな蝶と踊っていた。
猫背気味で、両ひざをほんの少し曲げ、下ろした両手のひらは正面を向いている(右手首の腕時計が重たそうだ)、そしてゆっくり、ゆっくり…と蝶に近づく両足は、川に浸していた時と同じく裸足で、足先から踵、あるいは踵から足先へと、滑らすように低い位置から下ろしていくその足運びは、繊細な蝶への配慮でありつつも、地面との交感だった。

左手のひらを、蝶に向かってやさしく振る、その動きに反応して、蝶がはためきそのものとなって逃げるが、数メートル先でまたくるくると、誘うように留まる。そこにまたゆっくりとフクシマさんは近づいていって、蝶が逃げて…というやりとりが続けられているその右横では、石田さんがまだ座り続けている。

写真:山﨑千尋

ごろごろと、砂利と言うには少し大きい河原の石に足を取られつつ、右後方から石田さんに近づいていくと、傍らには写真立てが置いてある。そこには川を正面に、右手の道と、左手の橋に挟まれるようにして膝を抱えた人物が描かれていて、画中には、「大事な決断をするとき ここに来たくなる」と散らし書きされている。まさに眼前の石田さんそのものだが、この場で描いたわけではないらしい。後ほど、取水口から福生駅方向へ、リーさんの案内でぞろぞろと玉川上水沿いを散策している時に、「 (地元の) 富山で描いたものです」と言っているのが聞こえてきた。

石田さんは、DPPT の第1回ワークショップにて《6つのサイコロ》を発表したが、その時も、右手で振った(見た印象から言えば “落とした”)サイコロの行く末、すなわち、テーブルに置かれたパネルの上へ載るか、天板まで転がるか、それとも床へ落下するかを眺めていて、自分の力ではどうしようもないものを見つめるという点で、転がるサイコロと、流れる川は通ずるかもしれない。そして、決断とは何かを “決める” ものでありつつ、自ずと “決まっていく” 側面もあって、石田さんの背中は、何かの到来を待っているようでもあるが、DP自体に、長時間行うことによって “失敗” や “アクシデント” といった予期せぬことを呼び込む、待望する構えがある。

取水堰に戻れば、石田さん、フクシマさん、山岡さんを一望するように、河原へと下りるなだらかな坂の途中で、フナノカワさんが日傘を差して立っている。

山岡さんはちょうど、石を持った左手を振りかぶっていて、1分ほどはそのままだったろうか、そして川に石を投げる、足元を見ると、今ので2個目だったらしい、石が8つ残っているし、川の水面間際には、3本のキュウリが、互いに支えあうようにして立てられている。

写真:村山雄一

岸ではリーさん、セキさんが見ていて、その横から私はのぞき込んでいた。そしてその様子を、岸から見て右手、休憩所と玉川兄弟の像がある高台の斜面近くの浅瀬から、両裾をまくり上げた写真家のムラヤマさんがこちらにカメラを向けていて、さらに左奥、コンクリートが盛り上がって岩場のようになったところでは、トリモトさんが足を投げ出して見ている。

山岡さんは、見ている間にも石をふたつ投げ入れて、“石ふたつ” 分の時間が流れたが、DPを行うということは、時計の針以外のもので、時間を測る術を開拓(あるいは再発見)することかもしれない。だとすれば、DPを見るということは、その “時計” を使ってみることだ。

見当たらないフジモトさん、シミズさん、北山さんを探して休憩所の向こう、多摩川と玉川上水とが分かたれている取水堰のあたり(ここでほんの30~40分前、着いたばかりの私たちは、玉川兄弟が8か月ほどで上水を造りあげたことを、リーさんから教わっていた)まで戻ると、左手の対岸に青いシャツの人影が見えて、緑と、灰色と、枯草の黄土色の中で映えている。北山さんだ。そしてそのまま、背丈ほどはありそうな茂みの中に消えていった。

道路に一旦出たのは、取水堰の向こう側、桜づつみ公園周辺も(一応)パフォーマンスエリアに含まれていたからだが、川に沿った道路から見渡しても、再び川べりに下りても、まっすぐ伸びた、点々とベンチの置かれた舗装路に気配はない。早々に諦めて引き返すと、ちょうど三脚を持った山﨑さんもこちらに向かってきた。「そっちいそうでしたか」「いなさそうでした」と情報交換しながら一緒に取水堰まで戻ると、対岸の、狩野派の描く松みたいに左へと捩じれた樹(と思ったけれど、写真を見返してみるとそこまで太くはない)の上に、北山さんが足をぶらぶらさせながらうつ伏せになっていて蛹みたいだが、坂東眞砂子の『蟲』でも、主人公の夫が、オフィス街の木にぴたりと抱きつくシーンが(たしか)あって、それは “羽化” の予兆だった。「近くで見てきます」と言って、山﨑さんと分かれる。

写真:山﨑千尋

その前に再び岸を覗けば、山岡さんは、右手に持ったオレンジの拡声器を使わなかったようだ(使っていればおそらく聞こえた)。右足のあたりに置くと、今度は同じくオレンジのロープを川に放るが、あまり遠くへは流れていかず、岸の縁をなめるようにとぐろを巻いている。左足近くの石は、4個になっていた。

そして羽村堰下橋へ向かおう…とすると目の前を右から左に黄色い蝶が閃いていって、ハッと右手を、川べりを見やるとフクシマさんは相変わらず蝶と踊っている。玉川上水のあたりはやはり住み心地がよいのか、蝶があちこちふらふらしていて、見かける度に、フクシマさんと踊っていた蝶がこちらまで飛んできたようだ(そして人も憩っており、先ほど山岡さんを見ていた時、「何やってるんですか」と興味津々に声をかけてくれた人は散歩の途中だったらしい)。

そうした錯覚は、石田さんのドローイングが、富山の川と多摩川を結びつけたこととも通ずるし、「玉川上水46億年を歩く」が、ここ羽村から皇居までの46kmと、46億年の歴史を重ね合わせている(すなわち、1kmを歩く中で、1億年の経過を想像する)こととも繋がるようだ。パフォーマンス終了後、休憩所に再集合した私たちは、リーさんの案内で玉川上水を福生駅の手前あたりまでぞろぞろと下った。その距離はおおむね2.5キロで、換算すれば “2.5億年分” を歩いたことになる。

DPに限らず、美術・芸術には元々そうした働き、すなわち異なる地点(あるいは時点)同士を結びつける力があるが、そうした感覚が、身体に浸透してくるまでには時間がかかる。それは、よく噛まないとお米の甘味がわからないことと卑近ながら似ていて、DPは長時間だからこそ、食や、睡眠といった生理現象とも縁が深い。パフォーマンスをやる/見るということが非日常ではなく、日常の、生きることのタイムスケールへと近づいていくからだろう。

そしてそれは、“舟を引っ張る” ことと近いかもしれない。多摩川緑地福生加美上水公園を抜けた先には、加美上水橋という10数メートルの短い橋があって、そこから上水を眺めると、両岸から庇のようにかかる木々、その緑葉の鮮やかさを水面も着飾って翡翠色のトンネルのようだ、「ここは昔、水運に使われていた」と教えてくれたのはやはりリーさんだ。そして「上流から下流へと荷を運んだ帰りは、両岸から舟を引っ張りあげたのでしょう」と続けるが、舟の重みと、川の抵抗を感じながら遡行し続ける営み、その労働はDPにも流れていて、反復や持続を伴うDPは、労働や刑罰に近い、ただ、それをアーティスト自ら課している、処しているところに大きな違いがある。

取水堰に戻れば、羽村堰下橋は向こうの人がマッチ棒みたいになってしまうほど長い、解散してしばらく後、シミズさんはこの橋を渡りきって右折した。それを私が目で追っていたのは記 “憶” 係を自認していたからだが、福生でみんなして寄った旧ヤマジュウ田村家住宅では、「記憶画」というものが展示されていた。その名の通り、窪田成司さんという方が記憶に基づいて描いた町並みによれば、今でこそ教会になっている住宅の向かいは郵便局だったようだ。窪田さんの脳裏には、日々暮らす中で往時の風景が焼きついていったのだろうが、DPを見ることも、目の前の光景を焼きつけていくようなものだ。

シミズさんのその後を、山﨑さんも、ムラヤマさんも捉えることはできなかったようだか、山﨑さんとはしばしば「シミズさん見かけた?」と言い合っていたし、頭の中で「どこかな…」と考えたりもしていて、そうしたことや、記憶画は、ちょうど『青い鳥』で “おばあさんチル” が孫のチルチル・ミチルに語った、

「わたしたちのことを思い出してくれるだけでいいのだよ。そうすれば、いつでもわたしたちは目がさめて、お前たちに会うことができるのだよ。」(新潮文庫, p.64)

とも通ずる気がする。DPは長時間だからこそ、大抵は見切れない。その時、チルチル・ミチルが “おじいさんチル”、“おばあさんチル” を思い出すように、自分がいない間にも進行しているはずのパフォーマンス、その様子を想像してみたり、こうした文章から思い浮かべてみたりすることも、ひとつの面白がり方かもしれない。

そんな橋を、私も渡りきって右折する、そこから土手をまたしばらく進むと、右手の木立から北山さんが垣間見えて、やっぱりそのまま樹の枝に、うつぶせで横たわっている。しかし、さらに先の階段から川縁に降り、回り込むように近づいても、植物の背の高さが際立って(そしてそのあたりの地面がぬかるんでいて)かえって見えず、「だいじょうぶ~?」と川向こうから聞こえてくるのは山岡さんの声だ。対岸なのに、思いのほか近い。

その声は、しかし私宛のものではなくて、

「いるの知ってるよ~!」

山岡さんは再び石を、ゆっくりひとつひとつ投げ入れながら、

「ごめんね~!」

川にいる何者かに話しかけているようで、最初、その “相手” は川の上を低空飛行する鳥(ハクセキレイだろう)かと思った。

しかし、大きく迂回するように、10~15分ほどかけて引き返し(その時にまた、橋の上で山﨑さんとすれ違う)、コンクリートの岸の突端に戻るその手前から、

「あ~そ~ぼ~!」

と山岡さんの声がして、小学生の頃、5階建ての公務員住宅住まいだった私と同級生たちは、億劫がって互いを窓越しに呼んだ。築40年ほどだったから窓越しにもよく聴こえて、窓に飛びついて返事をした、もっとせっかちな時は玄関に直行して階段を駆けおりる。階段は外から半見えだから、それ自体が返事となった。…が、山岡さんの呼びかけに答えるものはいない、相手は河童だからだ(石を補充しにいった川縁、その帰り際に山岡さんから教えてもらった)。

そしてそこには、幼い頃の記憶が響いているようで、当時、よく家へ配達に来ていた “お兄さん” がある時から来なくなった(水難事故だったらしい)。そのお兄さんをいつまでも待っている山岡さんに、ご両親は「河童になったんだよ」と諭したそうだが、こうして石を投げることは、窓ガラスに小石を投げて来訪を告げる手つきと似ているかもしれない(そう言えば、ガラスも液体らしい)。

しかし、山岡さんの真後ろだと意外と声が聞こえないのは、傍らを流れる多摩川が浅いながらに速いからで、左を見れば、さっきあんなに近づいたのに見えなかった北山さんが、ここからだとむしろよく見える。

首を90度ほど右に向ければ、石田さんが川を向いて座っている…のは、場所が先ほどと違うからで、そのままさらに、身体を後ろにひねって見れば、石田さんがいたあたりには家族連れと思しき人たちがシートを敷いていて、小さな子がその周りをぽてぽてと歩いている、後ろからは父親らしい人が、虫とり網を持って、屈み気味について行く。

その光景は、蝶と踊っていたフクシマさんとも通ずるけれど、フクシマさんの姿はなくて、すでに踊り終えたらしい。

そして一旦、玉川兄弟の像まで上がって川辺を臨むと、川縁の石田さんから、岸の突端の山岡さん、そして向こう岸の北山さんが、あたかも水面に向かって投げた石が、ぽんっぽんっぽんっ…と左へ逸れながら滑っていくみたいに並んでいる。振り返ると、再集合場所の休憩所、そのベンチには濃紺の日傘で顔を覆って寝転がっている人がおり、その傘にも、地面に垂れ下がっている、黄色と黒のカエル?のぬいぐるみにも見覚えがあって、フジモトさんが “寝るパフォーマンス” をしているようだ。頭上には「キャンプ等、宿泊を伴うご利用は禁止です」と、管理事務局による注意が掲示されていて、傘の下から、右腕がスルッと出てきて地面を擦る。貝みたいだ。

北山さんは、相変わらず対岸の樹にうつ伏せで、一方、石田さんは川原に仰向けになっている。山岡さんは、「いるの知ってるよ~!」と河童に呼びかけ続けていて、カメラを持った山﨑さんが、休憩所付近からみんなを一望している。

始まりがゆるやかなら、終わりもいつの間にかやってきて、13時半過ぎ、たまたま見上げた橋の上には、帰ってきたらしいシミズさんが歩いていて、しばらくするとそこにフジモトさんが合流して何か話している。

対岸の北山さんも樹をゆっくりと下りはじめて、目の前の山岡さんは、拳より一回り大きな石をふたつ、頭の上で重ねて川を見ている。石田さんは体育座りに戻っていて、水音がして振り返ると山岡さんは石を放ったようだ。

北山さんも浅瀬を渡ってこちらに合流して、見せてくれたお腹には、赤い跡が鮮やかに、地図みたいに広がっていた。地肌を樹皮に当て続けていたらしい。

第二部 北山聖子《太陽に輪ゴムを打つ》

今にして思えば、その赤らんだ肌は、そこから12日後の5月3日に行われた《太陽に輪ゴムを打つ》、その予告だったのかもしれない。

《太陽に輪ゴムを打つ》は13時から始まり16時前に終わったが、この日は薄く掃いたような雲が何筋かたなびいているだけの真っ青な空で、爽やかながら、強く降りそそぐ日差しを3時間弱浴び続けた北山さんの両肩(ノースリーブの、黒いシャープなドレスを着ていた)は真っ赤ではないが朱色だった。というのも、遮るものの何もない原っぱの真ん中で、太陽に相対し続けていたからで、3時間かけて、北山さんは40°以上向きを変えた。時計回りだった。

そしてタイトル通り、太陽に向かって輪ゴムを飛ばし続けるのだが、まずはおもむろに、足元に置いた輪ゴムの塊から1本摘まみ上げる。その動作は、右手でなされることもあったし、左手のこともあったが、左手の親指に引っ掛けた輪ゴムを、右手の親指と人差し指で引っぱる(そして手首を返しながら、人差し指を鉤状にして引っかける)ようにして “照準” を合わせるその視線は、太陽の方角を向いているようだが、黒い帽子が影を落としている。

写真:山岡さ希子


 仰角は30°ほどだろうか、強い日差しの中、20cmくらいに伸ばされた輪ゴムは、5mは離れたところから、それも斜面から見おろしていると背景の草むらに紛れてしまうから、輪ゴムを伸ばしているというよりは、身体を使って何かを測っているようだ。その姿勢のままで数秒後、フック上にした人差し指をほんの少し動かして輪ゴムを飛ばすが、その行為自体も、太陽までの距離を測定しているみたいで、全くもってスケールが違って思わず笑ってしまうほどだが、私自身を省みても、太陽までの1億4960万kmを測る術はない。

10mほど上空に輪ゴムが現れる、そして北山さんの右手側、丘のあたりまで弧を描きながら落ちていった輪ゴムは、一面を覆うツンツンとした草葉に王冠みたく受け止められていく。石田さんの《6つのサイコロ》でも、カーペットに転げ落ちたサイコロの分布は向かって右に偏っていたが、それは右手から左の方へ振っていたからで、同じように、西の方からおそらく1~2mの風が吹いていた。原っぱに散りばめられた、剥がれおちた空のかけらめいた青い網は大森愛さんによるインスタレーションだが、それらも仲良く吹かれている。

打ち終わると平然と両腕を下ろし、気持ち上を向いた視線は、目の前を見るともなく見ているようだ、そして口元がかすかに動いている…?がこれは(ご本人の記録文によれば)カウントをしていたらしい。輪ゴムを打ち終わった瞬間から、次の輪ゴムを飛ばす瞬間まで、私のカウントだと30秒のところ、北山さんの内観としては60だったようだが、このカウントは段々と “遅く” なっていった。

北山さんが佇む原っぱには3時間弱かけて徐々に影が差してきた。これは会場の田中現代美術研究所の背後から山並みがぐるっと続いていたからだが、研究所自体も小高い場所に立っていて、斜面から、点在する家々を望めばその向こうはランドルト環の切れ目みたいに広がっている。ざっくり言えば、北山さんは左半身を連なる屋根= “ランドルト環の切れ目” の方に向け、右半身を、覆いかぶさるような山林= “ランドルト環” に向けた状態からパフォーマンスを開始した。そして前述の通り、太陽の公転と共に40°ほど時計回りに “自転” したのだが、14時半を過ぎた頃には、ヴァロットンの《ボール》のごとく、北山さんのいる原っぱにまで影が伸びはじめて、その頃だろうか、北山さんの60カウントも、2分くらいに延びていた。

そして太陽は、さらに1時間をかけて魔女の指めいた節くれだった樹影で北山さんに触れた。そこから10分も経たない内に、輪ゴムの束を少し残してパフォーマンスは終了した(ご本人曰く「太陽が見えなくなったから」だそうだ)。

葉っぱたちから “王冠” を外していく合間にも、ぐるりと見渡せば、山の上にポツンポツンと立った鉄塔から深緑の稜線をなぞるように “五線譜” がたなびいていて、数分前まで、たしかに輪ゴムはその上で、全音符みたいに踊っていた。(了)