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本発表では、インドのパフォーマンスアートの実践の一部について紹介するとともに、現在取 り組んでいる、KIPAF についての研究状況および今後の課題を共有したい。
発表の構成
- 国内の文化活動とパフォーマンスアートとの関わりについて
- KIPAF の活動紹介(Kolkata International Performance Art Festival)
- 様々な要素を含む KIPAF の活動をどのように考えるべきか、ということについて、政治性 という側面からその実践を検討し、さらにその後、逸脱性、侵犯性の要素に話を進めたい。
1. 国内の文化活動とパフォーマンスアートとの関わりについて
1-1. デリー中心とした90年代〜2000年代
インドにおけるパフォーマンスアートの実践が国内の現代美術の文脈に組み入れ られ、認識され始めたのはデリーを中心に、 2000 年代初頭入ってからである。デリーにおい て、パフォーマンスアートについての議論や実践が個々のアーティストによって活発化したの は、およそ 1990 年代からであり、約 10 年を経て国際的な現代美術の潮流の影響を受けな がら、デリーを拠点とする芸術機関が、パフォーマンスアートに関するアーティストインレジデ ンスや、アートフェスティバルを始めたことでインド国内におけるパフォーマンスアートへの関 心が急激に高まった。1990 年代のデリーでパフォーマンスアートの実践において中心的な活 動をしていたアーティストとしては、少なくともスシル・クマール(Sushil Kumar)、シャントヌ・ロ ード(Shantanu Lodh)、インデル・サリーム(Inder Salim)の3人が挙げられる。始めに彼らの 活動について示したい。 クマールはインドで最も早くパフォーマンスアートの実践を行ったア ーティストと言われている。彼はデリーを拠点とし続けたが、90 年代前半からパフォーマンス 作品を上演するためにスウェーデン、フランス、フィンランドなどに招かれており、90 年代のパ フォーマンスアーティストの中では最も 国際的な活動がみられる。彼によると最初のパフォー マンスは 1982 年に行われた。この作品は性的欲求にまつわる問題について言及しようとし たもので、パフォーマンスではポルノ雑誌と性愛について記した古代インドの論書である『カ ーマスートラ』の両方を同時進行的に読むというものだった。クマールのパフォーマンスアート の実践は、ライブ性と日常的な行為を芸術行為に盛り込むことへの関心から来るものであ り、彼のパフォーマンスアートの実践は 90 年代のアーティストに大きな影響を及ぼした。しか しながら 80 年代から 90 年代活動の記録はほとんど残されていない。
ロードは、西ベンガル州のシャンティニケタンでファインアートの修士課程を修了した後、デ リーに移り、美術教師として働きながら、パフォーマンスアーティストとして活動を行った。彼 の初期のパフォーマンスのひとつは 1998 年に行われた。パフォーマンスの中でロードは数匹 の魚が泳ぐ水槽の横に座り、自身の頭髪をはさみで切って水槽の上に置いた。その後、水槽に手を入れて魚を捕まえようとする動作をした後、抵抗する魚がロードの手をかじり、そこから 血が流れ出た。ロードによれば、この 30 分ほどのパフォーマンスを観た人々はどのように反 応して良いのか分からない様子であり、その中には驚く者もいれば嫌悪感を示す者もいたよ うだ。このパフォーマンスは、同時期に死去した母親に向けて行われたものである。北インド のデリーとは異なり、ベンガル地方の食文化では魚が好んで食されるが、魚は、ベンガル地 方出身のロードのアイデンティティや、母親の記憶に深く結びついたものであった。ヴィジュア ルアーティストとして教育を受けたロードは、絵画では母親の死がもたらした苦悩を捉えきれ ないと感じ、パフォーマンスアー トという芸術形態を選のだという。サリームは、1991 年に故 郷であるカシミールで続く紛争から、妻と幼い娘と共にデリーに逃れて以来、今日まで精力的 にパフォーマンスを行ってきた。サリームは、1996 年にデリーで絵画作品の展覧会を行って おり、その後写真を自身の表現手段に取り入れた。しかしながら、銀行員として働き家族を養 いながらアーティストとして活動を続けるにあたって、カンバスや絵の具、写真の印刷にかか る費用は大きすぎるものだった。若いアーティストの発掘に尽力しないアートギャラリーや、絵 画が主要な美術形態として君臨していた当時のインドの保守的なアートシーンへの幻滅や反 抗の最中で、国際的な美術雑誌で目にしたパフォーマンスアートという形態はインデルがデリ ーでアーティストとして表現を続けるための格好の手段だった。
《あなたと私は、ギャラリーの中に閉じ込められている(Hum Tum Ek Gallety Mein Band Ho)》は、インデルの初めてのパフォーマンスであり、ロードと共に 1998 年にデリーのア ートギャラリーで行われた。2 人は、「私と君はギャラリーの中に閉じ込められていて、鍵はな くしてし まった(Hum Tum Ek Gallery Mein Band Ho, Aur Chabi Kho jaaye)」、「私と君はカメ ラに捕らえられてしまっていて、現実を忘れてしまった(Hum Tum Ek Kamerey Mein Band Ho, Aur Reality Bhool jaaye)」と書かれた2 つの横断幕を、多くの美術や演劇関係者が集うマン ディハウスに設置したあと、それをコンノートプレイスにあるアートギャラリーまで移動させ、ギ ャラリーの外に設置した。それから、ギャラリーの展覧会の初日に、「あなたの忠実なしもべ」 と書かれたシャツを着て、ギャラリーに訪れた人々にワインや軽食を配った。ギャラリーの床 には、彼ら 2 人の写真が貼付けられていた。パフォーマンスのタイトル、及び 2 つの横断幕 の文句は、70 年代にヒットしたボリウッド映画『ボビー』の挿入歌の歌詞の一節になぞらえた ものであり、「私と君は部屋の中に閉じ込められてしまっていて、鍵はなくしてしまった(Hum tum ek kamre mein band ho, Aur chaabi kho jaaye)、こんな時に何が起こるか想像してごらん」 9 と歌う、思いを寄せ合う若い 男女の関係をアートギャラリーと若いアーティストとの力関係に 転化させ、商業的で保守的なインドのアートシーンを批判している。
2002 年の《発電所と共に死んだ川で鳴り響く(With Power Plant, Shrill Across A Dead River)》 は、自身の小指を切断し、それをヤムナ川に流すというパフォーマンスであり、 サリームが自身をパフォーマンスアーティストとして確立させ、そう認識されるに至った重要な 作品である。ヤムナ川はガンジス川と共に、ヒンドゥー教の信仰と関連して神聖な川とされている。しかし、 「文明の発達に伴って、川は消滅してしまった。私たちの時代において、私た ち自身が川を殺したのだ」とサリームが言うように、その信仰とは裏腹にヤムナ川は、生活ゴ ミによってひどく汚染され、世界で最も汚れている川のひとつとされている。小指を切断する 痛みや流れる血液は、川が文明によって汚染され殺されていくことの強烈なメタファーであっ た。
このような 90 年代のパフォーマンスアートの実践は、必ずしもインドのアートシーンによる制 度的なバックアップがあったわけではなかった。
実際にクマールは、インタビューでこのように答えている。「1990 年代のパフォーマンスアートシーンは、その実践の不在と不可視性という理由により、 良いとは言えなかった。また多くのアーティストは、アートマーケットから疎外されていた。私の ような人々は、無視され、疎外され、揶揄われ、真に受けられることはなかった。それはその 実践がメインストリームにはなかったか、市場価値がなかった、あるいは別の理由のためか は、よくわからない。パフォーマンスアートの実践は、オルタナティブな場所で、サバルタンとし てなされていた。」
そのようなパフォーマンスアートという芸術形態がインドのアートシーンでほとん ど注目されない状況が変わり始めたのは、影響力をもつ芸術機関がパフォーマンスアートに 注目し始めた 2000 年代初頭からである。特に、デリーを拠点とする非営利機関である Khoj International Artist’s Association(以下 KHOJ とする)の活動は、インド、特にデリーでのパフォ ーマンスアートへの関心の高まりを決定づけるものだ。 KHOJ は 2006 年 に若い才能を発 掘し、インドのパフォーマンスアートシーンの活気づけを目的としたアーティストインレジデンス を行った。ラフール・バッタチャルヤ(Rahul Battacharya)によって書かれた報告書によると、こ のプログラムには、国内のみならず、アメリカ、イギリス、ブラジル、中国か ら計 7 人のパフォ ーマンスアーティストが招聘され、6 週間のレジデンス期間を過ごした後、それぞれのパフォ ーマンス作品が一般上演された。また、招聘されたパフォーマンスアーティスト達 との交流を 経て、運営側で当初のレジデンステーマに変更が加えられ、単にインドのパフォーマンスアー トシーンを盛り上げるのみならず、観客のパフォーマンスへの介入といった観客とアーティスト の相互的な関係を含めたパフォーマンスアートという芸術形態の今までのあり方を考え直し、 拡大していくというものになった。
そして、2008 年には、インドで初めての国際的なパフォーマ ンスアートフェスティバルである、「KHOJ LIVE08」が開催された。6 日間のフェスティバルで は、国内外から 27 人のパフォーマンスアーティストが招聘され作品を上演したが、パフォーマ ンス作品の形式は非常に多様で、ギャラリー内のみならず公道での上演も行われた。また、 ビデオアートやサウンドアートの要素と取り入れた作品も多くみられ、パフォーマンスアートに ついての枠組みの拡大が志された 2 年前のレジデンスプログラムの成果が生かされる結果となった。 インドのアートシーンにおけるパフォーマンスアートへの注目度合いの高さを示す という点で重要なのが、このフェスティバルは、ゲーテインスティトゥート、アリアンスフランセー ズ、パレットアートギャラリー、アナントアートギャラリー、ギャラリーイースペースといった、デ リーの文化・美術交流の拠点となっている機関や重要なアートギャラリーの協力を得て開催さ れているということである。また、インド大手の美術雑誌である、アート・インディアでは、この フェスティバルについて、KHOJ の創設者であるプージャ・ソード(Pooja Sood)へのインタビュ ー記事が掲載されており、インドのアートシーンの様々な方向から注目されていた。さらに 「KHOJ LIVE08」はインド、特にデリーの現代アートシーンを大きく巻き込みながら開催された ことに加えて、非常に多くの観客を動員した。先述したように、90 年代インドでのパフォーマン スアートの実践はアートギャラリーで行われたことはあっても、インドの重要な文化、美術機 関に認識されるほど大きな注目を浴びる事はなかったが、2000 年代初頭には間違いなく、芸 術行為として観客に認識されていたということが分かる。 このことから分かるのは、90 年代 から約 10 年の間で起こった、パフォーマンスアートへの認識の大きな変化であろう。インドで 影響力のある文化、美術機関がパフォーマンスアートという芸術形態に注目しはじめ、パフォ ーマンスアートをインドのアートシーンに組み入れたという、急激な関心の裏側には、90 年代 の国内のグローバル化に伴って、インドのアートシーンが国際的な潮流に追いつく必要性を 迫られていたという事情があったのではないかと考えられる。
1-2. JANAM、SAHMATとの関わり
それでは、インドのパフォーマンスアートの実践の源泉を国内の文化活動に見出 すことはできるのだろうか。インド国内で文化や芸術に関わる者達によって、パフォーマ ンスの社会的役割が明確に意識された実践の一つとして、共産党による文化活動が 挙げられ、それは 40 年代の左翼演劇に遡ることができる。しかし、そのようなパフォ ーマンスへの認識が視覚芸術に取り入れらはじめるのは 90 年代からであり、そこ にパフォーマンスアートの実践への萌芽がみられると考える。
この 90 年代の動きに関わる活動をしていたのは、1973 年に設立され た左翼演劇グループである Jana Natya Manch(略称:JANAM)と、1989 年にその活 動を引き継いで独自に発展させたアートグループである Safdar Hashmi Memorial Trust(略 称:SAHMAT)である。
上2つは、共産党のイデオロギーを、組織運営と上演主題の両方に反映させていた が、SAHMAT の活動は、バルーチャの、「彼らを結束させているのは、特定の価値 観や原理ではなく、共有される敵対意識である。それはコミュナリズムであり、恐れ、 怒り、失望、恥といった相反する感情と団結への必要性を提示するのだ。」 ( “In the name of secular –contemporary cultural activism in india”(Rustom Bharucha,1998)という言葉で示される通り、単に共産党のイデオロギーを流布させる ものではなく、そこには政治イデオロギーに関わらず、様々な文化人やアーティストが 参加していた。
このような SAHMAT の活動指針がよく現れているイベントのひとつは「アーティス ト対コミュナリズム(Artists Against Communalism)」である。これは、演劇学校があり、 今でも演劇を学ぶ学生や 演劇人の集いの場となっているマンディ・ハウスという地区 の「サフダール・ハシュミ通り」で行われ、17 時間の座り込みに加えて、音楽、ダンス、 演劇などの多種多様パフォーマンス演目が次々と上演された。 →コミュナリズムへ の抵抗は、インドの文化的、宗教的、民族的多様性を示すことによりなされた。
さらに、「音の解放 (Muktneed)」 (1993 年8月14日夜から朝)は、ヒンドゥー教至 上主義者による、アヨーディヤにあるバーブルのモスクへの破壊行為に対して行われ たものであり、そこでは、破壊行為が起きたアヨーディヤで舞踊や音楽パフォーマンス が披露された。バーブルのモスクへの破壊行為:ヒンドゥー教のコミュナリスト達にとって、ムスリム支 配者によって破壊されたヒンドゥー寺院の再建というのは、至上命題のひとつであ り、破壊されたバーブルのモスクも、その標的の内のひとつであった。アヨーディヤ は、ヒンドゥー教で信仰される神様のひとりであるヴィシュヌ神の化身であり、またイン ド古代の叙事詩である「ラーマーヤナ」の主人公でもあるラーマの生誕地であるとされ ていたため、ヒンドゥー教至上主義者達は、バーブルのモスクはラーマ生誕寺院を破 壊して、その上に建設されたものだと主張されたのだ。→コミュナリズムを象徴する出 来事
表現形態は伝統芸能であったが、通常の意味での演奏会や公演会とは異なり、それ らの表現は演奏する身体がここ(アヨーディヤ)にあることによって、その身体はコミュ ナリズムへの抵抗する身体としての意味を付与されていたと言える。
1992 年のプロジェクトである「共生に向けたスロー ガン(Slogan for Communal Harmony)」:オートリキシャの運転手を参加者に迎えた詩のコンテストを開催した。 詩のテーマは、人類愛や、社会の調和といったコミュナリズムに対抗するメッセージを 含んだものだった。SAHMAT がコンテスト開催一ヶ月前に参加者を募ると、当日は 様々な宗教に属する運転手達が約 200 人が集まったという。コンテストの中ではドライバーが考えてきた詩が、彼らのリキシャの車体の後ろにペイントされプロジェクト が終わっても宗教思想を超えた調和や愛についての詩がペイントされたリキシャがデ リーの町中を走ることとなった。
「動くアート(Art on the Move)」(2001) :身体がその場にあること自体が大きな意味 を持つことや、市民との関わり合い、という要素が視覚芸術と出会うことになるプロジ ェクト。
このプロジェクトでは、インドのグローバル化によって変化する都市における宗教アイ デンティティの保持や人々の共生、そして広がる経済格差や中産階級で顕著となった モノの消費の激増についてがテーマだった。アーティストには、このような社会状況に 応答する作品を制作すると同時に、それが町中を作品が動き回れるための可動的な 作品であることが求められた。そのために、作品には野菜売りやリキシャの運転手な どの一般的な労働者が使用する自転車や手押し車を使うことが条件だった。プロジェ クトには募集によって選ばれた 16 人のアーティストが参加した。その中のひとりで ある M.ソヴァン・クマール(M.Sovan Kumar)は、手押し車の上にマットレス、枕、天 蓋、そしてインド式のトイレを設置し、「中産階級の一般的な寝室」を再現し、クマール は町中をその手押し車を引いて歩いた。そして彼は 20 人の中産階級家庭に、ビニ ール袋の中に使い終わった商品を入れて 7 日後に持ってくるように頼み、それらの 消費された品物は、プロジェクト最終日に手押し車の寝室の上に並べられて展示され た。
このようにプロジェクトの中ではアーティスト全員が自ら作品と一体になった手押し車 を引いたり、自転車を漕いで街中を動き回ったりした。したがって、全ての作品には必 然的に身体性が付与されることになった。また、クマールの作品で顕著なように、観 客にアート作品の一部を任せることで観客の作品制作における役割が大きくなり、ア ーティストと観客の画一的な役割分担が無くなってきていることが分かる。このよう な、視覚芸術と身体性が出会うことと、観客を作品制作プロセスの中に巻き込むこと の両方はパフォーマンスアートにも見られる特徴でありがなら、SAHMA が1990 年から繰り返し行ってきたことでもあると言える。
実際に SAHMAT のプロジェクトはインドでパフォーマンスアーティストと して活動していた、またはすることになるアーティストたちの活動発表の場になった り、その活動に影響を与えていた。
例えば、ルマーナ・フセイン(Rummana Hussain)は画家であったが、SAHMAT メンバ ーのラム・ラーマン(Ram Rahman)が指摘するようにアヨーディヤでのモスク破壊事件 以降のフセインの作品では、絵画ではなくパフォーマンスやインスタレーションが用い られ、芸術実践形式の転換が起きている。ヒンドゥー教至上主義者の台頭やコミュナ リズムの激化は、イスラム教徒の家系に生まれたフセインの実生活にも影響したた め、彼女は自身のムスリム女性としてのアイデンティティについて再考せざるを得な かった。そのような点でアヨーディヤで起こった事件は、フセインの芸術活動における 主題の問題に大きな影響をもたらすようなターニングポイントだった。彼女の芸術形 式の大きな転換については、批評家のギータ・カプール(Geeta Kapur)が、フセインは 「SAHMAT に参加したことで、彼女の急進的な立場を表明するための戦略」を身に つけたと指摘するように、絵画を主な表現媒体としていたフセインがパフォーマンスを 芸術実践として取り入れるに至るには、 SAHMAT での活動が深く関連しており、フ セインは国内の社会状況に対して応答するための戦略を SAHMAT の中の活動を通 して見つけたアーティストのひとりといえる。
また、インデル・サリームもパフォーマンス作品を SAHMAT のイベントで披露してい る。
2. KIPAFの活動紹介
2-1 開催形態について
ここまでインドのパフォーマンスアートが、国内外の文化的影響を受けな がらどのように芸術として認識されるに至ったかということを説明してきた。次に、私 が現在修論のテーマとして取り上げることを考えている KIPAF について紹介したいと 思う。 (KIPAFのYoutubeチャンネルはこちら →https://www.youtube.com/user/Perfrmersindepndnt )
KIPAF の設立時に中心的役割を担ったのが、トーフィック・サイードという人物。シャン ティニケタンで美術を学び、パフォーマンスの実践を開始する。先程のデリーでのパフ ォーマンスアートの状況を思い出しながら、彼のアーティストとしての実践の変遷と KIPAF の開催に至るまでを辿っていくと、デリーとは違う様相が見えてくる。
2-2 KIPAF開催に至るまで
KIPAF 開催に至るまでの経緯を、トーフィックの芸術実践の来歴と重ねて 説明します。
私が KIPAF の活動に参加して感じたのは、身体を路上に持ち出してパフ ォーマンスをするということを政治的行為として強く意識しているということだ。具体的 にどのようなところに政治性を見ることができるのか、わかりやすい事例として 2016 年のフェスティバルを取り上げたい。
3. KIPAFの活動をどのように位置付けるか
3-1. KIPAFの政治性
主題の面から言えば、この年のフェスティバルでは、ロヒッ トの事件を主題とした個人および集団によるパフォーマンスが多く披露された。
形式面に着目すると、この年に行われた集団による即興パフォーマンス がわかりやすい例で、警察の介入に対する交渉をパフォーマンスに転化させた。
KIPAF の持つ政治性とも関連して、KIPAF の活動をどのように位置付け るかということについてさらに示唆的な出来事を紹介する。
3-2 . 逸脱性、侵犯性
2020 年の KIPAF での出来事。2020 年1月は、KIPAF の開催月だが、インドで市民法の改正案が施行さ れた時期で市民法の改正に関するプロテストが盛んに行われていた時期でもあっ た。
プロテストが行われていた場所はムスリムエリアの中の Park circus maidan という場所。そこでインド人のKIPAF 参加者のうち一人が、プロテスト会場か ら少し離れた路上で参加者や通りがかりの人々の足形をチョークで地面になぞって 描くという行為を始めた。行為を進めていくうちに、チョークで描かれた足形がたくさん 地面に残った。すると、プロテスト参加者が数人やってきて、KIPAF の参加者に、何を しているのかと問いただし始めた。インド人メンバーが、説明を試みた。その中では、 「ここで何をしているのか」「私たちはあなたと同じ目的を持ってやっている」「それでは なぜ、会場ではなく路上でこんなことをしているのか」という会話がなされたが、解決 には至らず、次第に周りには大きな人だかりができ始め、激しい口論のようになって いった。
→プロテスト参加者は KIPAF 参加者をなぜ敵対視したのか?
・足形→親指のサイン→bjp 側の人間による市民の ID 収集活動のように思われた、 ポルノキャンペーン
・アヨーディヤ:ヒンドゥー教原理主義 vs ムスリムの対立、緊張が高まっていた
・CAA へのプロテストという同じ目的を持つ行為だとしても kKIPAF のやり方は、その 場で行われていたプロテスト運動の持つボキャブラリーから全く逸脱し、さらに彼らの 活動を侵犯し、乱しているようにみえる。
問題提起
以下、Serafini, Paula の著作 ‘Performance Action : the politics of art activism‘, (Routledge, 2018 )より
本の中で筆者 パウラ・セラフィーニ(Paula Serafini) は、社会運動の枠組みと、現代の参加型アートの持つ枠組みは異なる と、クレア・ビショップを引用しながら説明する。
社会運動では既存の社会的枠組みからの逸脱性が、集団として現在とは違う未来を 志向することにつながり、さらにそれはその集団の戦略的方法によって成り立ちうると しているのに対し、アートの文脈では、強い作家性を持つ作品の対局に作家性から離 れた参加者の自主的な創造性が発揮された作品を置き、作家による戦略的な介入 は建設的な方法であることとは両立しないとしている。
→そこで筆者は社会的、政治的アクティヴィズムの文脈で見られる、参加型アートパ フォーマンスは、建設的でありがなら、prefigurative、さらに、逸脱性を持ちながら介入 主義的でありえるのか?また、それぞれの要素はどう影響し合うのか?ということに ついてさらに考察を進めていく。
KIPAF の活動を、どの文脈において、どのように位置付けるのかということを検討す る時、このような、社会運動とアートの実践の持つ理論的枠組みを互いに関連づけよ うとするこのような試みを援用しながら、KIPAF の活動が社会運動とパフォーマンスア ートの実践の両方に属しながら、侵犯するような越境的な活動であることを示すこと ができるのではないか、と考えた。
試しに、prefigurative approach, strategic, 逸脱性、建設的方法という要素 が KIPAF のどこに当て嵌まるのかを考えてみたい。
今後の課題:
- 逸脱性を考える上で依拠できる、引用した社会運動および美学理論に ついての論理的基盤
- 路上、公共空間の使用方法;コルカタにおける路上概念の変遷、インドにおける公 共空間についての捉え方の議論を追う
- アーカイブ整理の問題
瀬藤 朋 Tomo Seto 大阪大学文学研究科文化動態論専攻に在学中 (2020年現在)。2014年にパフォーマンスアートに出会う。2017年のインド留学を機にインドのパフォーマンスアーティストと交流を持ち、インドにおけるパフォーマンスアートの歴史的文脈について興味を持つ。現在、インドのプロテストの場におけるパフォーマンスアーティストの実践について修論をまとめることを思案中。